■元電通マン【藤沢涼】の挑戦

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◆藤沢涼の半生⑥【社会への反発】

2012年05月08日

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家庭が酷く荒れる中、
私は少しずつ、
学校の授業を真面目に受けることが
馬鹿らしく感じてきました。

授業をサボって、
非常階段に集まる不良達に混じり、
少しずつ悪い道に染まっていきました。

その仲間には、
私のように親が離婚した人、
親と死別した人など、
家庭に問題を抱えた人が多く、
お互い傷を舐め合いながら、
共に社会に反抗していました。

そして、そのうち、
くだらないことを理由に
ケンカをするようになりました。

怒りを爆発させることが快感となり、
ちょっとしたことで、
ケンカを吹っ掛ける日々が続きました。

悪さはエスカレートし、
今思えば本当に馬鹿なことを
繰り返していました。

教師には目を付けられ、
このような悪事が見付かる度に、
母親が呼び出されるようになりました。

母親は、

 「先生、ごめんなさい。
私がいけないんです・・・ゴメンなさい。。」

と言って、泣いていました。

家に帰ってからも、

「私がちゃんと
育ててあげられなかったから・・・
ごめんね。。」

と、ずっと泣いていました。

そんな母を、私はしばらく、
見て見ぬ振りをしていました。

心の葛藤を、
社会への反発で癒すことを覚え、
もう後戻りは出来ないと
考えていました。

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◆藤沢涼の半生⑤【再婚と引越】

2012年05月06日

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「新しいお父さん」
として紹介された大男が
本当の父親となることが決まり、
埼玉に引っ越すことになりました。

私は目標としていた
鹿児島の私立中学校を諦め、
埼玉の公立中学校に
入学することになりました。

入学してから分かったのですが、
ボンタンズボンをはく不良が多い、
地元では有名な悪い学校でした。

「新しいお父さん」は決して
裕福ではありませんでした。

でも、母親は、

 「あなた達を愛してくれる優しい人よ。」

と言っていました。

しかし、
この化けの皮が剥がれるのに、
時間はかかりませんでした。

会社の宴会から
酔って帰って来た大男は、
母親に対して、

 「なんだ、この汚い部屋は!?
一日暇なんだから掃除くらいしろよ!
大体、おまえは何も分かってねーんだよ。
おまえら、3人で鹿児島に帰れよ!!」

泥酔と暴力。

毎晩、大男の機嫌と酔い具合に、
脅える日々が始まりました。

ある日、

 「ふざけるな!」

という罵声と共に瓶が割れる音がして、
慌ててキッチンに入ると、
震える母の足下で、
ビール瓶が割れ、破片が散乱していました。

私は頭に血が上り、
大男に掴み掛りました。

しかし、柔道で鍛えていた
その大男に対し、
中学1年生だった私は、
全く歯が立ちません。

とても悔しい思いをしましたが、
私には、母をかばうことしか
出来ませんでした。

そんな恐怖の日々が
続く中で、

 「早く3人で鹿児島に帰ろう。」

私は母親に何度も言いましたが、

「もう、おじいちゃんおばあちゃんに
甘えられないし、私だけでは
2人を育てられないの。
お酒さえ飲まなければ
良い人だから・・・。」

悲しい顔をしながら、
母親は自分に言い聞かせるように
私と弟をなだめました。

こんな家庭環境の中、
私は中学校のワル達に、
近付いていくことになります。

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◆藤沢涼の半生④【2番目の父】

2012年05月04日

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 「会って欲しい人がいるの。」

母親が明るい声で言いました。

小学校6年生になった私は、
目標にしていた
私立中学校の受験を控え、
猛勉強していました。

学費は祖父がなんとかすると、
家族皆に応援されていました。

私は、実の父親に
目の前で捨てられた大きなキズを
かばうように、
その痛みを撥ね除けるように、
机に向かい、勉強していたのです。

「新しいお父さんなんだけど・・・。」

私は耳を疑いました。

福岡から帰って来てから、

「息子2人を育てる為に、
新しいお父さんを探さなきゃいけない。」

とは聞いていましたが、
本当にこの家庭に新しい父親が来るなんて、
想像していませんでした。

母は、結婚相談所で、
2番目の父を探していました。

そして、埼玉のバツイチの男性と
マッチングして、会ってみたら
とても良い人だったとのことでした。

私は、実の父親に捨てられたことで、
大人の男性に対して強いアレルギーを
起こすようになっていました。

学校の先生や周辺のお父さん達にも、
素直には従わなくなっていました。

「新しいお父さん」として
紹介された大きな男の前でも、
何も喋れませんでした。

「あの人で良い?」

と聞く母親に、
私は、

「お母さんが良いなら良いんじゃない?」

と答えました。

弟は、

「お兄ちゃんが良いなら、良いよ。」

と言いました。

でも実は、
その男を「お父さん」と呼べないことは、
その時に確信していました。

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◆藤沢涼の半生③【10歳の大きなキズ vol.2】

2012年05月02日

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ラウンジでは、
かなり待たされました。

30分か、1時間か、
どの位待ったか
覚えていません。

ただ、
祖父がかなりイライラ
していたのを覚えています。

祖父の怒りが
頂点に達しようとした頃、
男が現れました。

その男は、
背が高く、髭を蓄えた人でした。

目が合った瞬間、
生まれて初めて、
空気が凍り付くような
感覚を味わいました。

私が見たのは、
愛の無い、
極端に冷めた目でした。

「ぞろぞろ来やがって。
何の用だ?」

大人に恐怖を感じたのは、
初めての経験でした。
そこにいたのは、
自分が想像していた
優しい父親像とは、
全く別人の男でした。

「子供達はこんなに成長したの。
これから中学校、高校と通わせて、
お金が必要なの。
鹿児島に戻って、一緒に育てて
くれない?」

母は泣きながら、
訴えます。

「君を信じて娘を預けたんだ。
孫達もこんなに成長している。
もう一度考え直してくれないか?」

しかし、髭の男は表情を変えません。
むしろ、呆れた様子でした。
そして、言いました。

「コイツらは要らない。
俺には新しい子供がいるんだ。
あいつらを愛しているんだ。
おまえらには
毎月金払ってやってるんだから
それでなんとかやっていけよ。」

髭の男の言葉が、
ナイフのように
私の心を切り刻みました。

私は10歳にして、
「殺意」のような感情を持ちました。

初めて会った父親を、
心の中で殺そうとしていました。

母は

「なんでそんな酷いことを言うの?」

と号泣しています。

祖父は怒り狂って胸ぐらを掴もうとし、
それを祖母が抑えました。

そこからのやり取りは、
ほとんど覚えていません。

気付いたら、帰りの車の中でした。

祖父が運転し、母が助手席で泣いていました。

後ろの席で、私と弟は、
祖母に抱かれていました。

祖母はずっと気丈に振舞っていましたが、
母が

「私、もう死にたい・・・」

と言った途端、
堰を切ったように泣き始めました。

「そんなことを言うんじゃない」

そう言って、祖父も泣きました。

九州男児で硬派な
祖父の涙を見たのは、
初めてのことでした。

この車の中で、
私は自分の人生に
暗い影が落とされていることを
知ったのです。

10歳の心に出来た
大きなキズが、
自我の形成に
強い影響を与え始めたのです。

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◆藤沢涼の半生②【10歳の大きなキズ vol.1】

2012年04月30日

 「あなた達のお父さんは、
  福岡というところに住んでいるの。」

母が真実を明かしたのは、
私が10歳の時です。

父がいない理由は
聞かないようにしていた私でしたが、
心の中では、

 「きっと、お父さんは死んだんだ」

と思っていました。

ですから、
「生きている」と聞いた時、
自分の父に会うことが出来る喜びと、

 「なんで福岡というところにいて、
  なんで今まで会えなかったの?」

という疑問が交差して、
複雑な感情を覚えました。

真実を聞いてからすぐ、
母、祖父母、私、弟の5人で、
福岡に住む実の父に
会いに行くことになりました。

その道中でした。

 「お父さんは、
  他の女の人と暮らしているの。」

と聞いたのは・・・。

私は、
すぐには理解出来ませんでした。

しかし、
急に心が拒絶反応を示しました。

 「僕はお父さんには会わない。
  福岡には行かない。」

ワンワン泣き出して、
母と祖父母を睨み付けたのを
覚えています。

泣き崩れたまま、
車の中で眠ってしまい、
母の声で起きました。

 「このマンションにお父さんがいるのよ。」

私はそこでも、

 「僕は外に出ない。車の中にいる。」

と反抗しましたが、
祖父母と母に説得され、
マンションのラウンジで
実の父と会うことになりました。

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◆藤沢涼の半生①【出生~10歳まで】

2012年04月28日

 
私は、1979年、
鹿児島に産まれました。

物心が付いた頃から、
父親はいませんでした。

私の実の父は、
愛人を作り、
その愛人と一緒に
福岡で暮らしていました。

私は当時、
父親がいないことを
不思議に思っていましたが、
その理由を母に聞くことは
出来ませんでした。

幼い子供ながら、
それが「タブー」であることを
察知していたのです。

そして、
私には2歳下の弟がいたので、
弟を守る為にも、
私が父親の役目を果たそうと、
精一杯、
「大人」を演じていました。

しかし、
所詮は幼い子供です。

授業参観や運動会に
母親しか来ないことを、
とても辛く感じていました。

 「なんでいつも
  お母さんだけなの?」

という友達の
デリカシーの無い
(でも子供だから致し方ない)
質問に傷付き、

 「お仕事が忙しいみたい・・・」

という精一杯の嘘が、
更に自分の心を抉りました。

でも、母は私達兄弟を
大きな大きな愛で
包んでくれました。

母が仕事で家にいない時は、
近くに住む祖父母が、
私達を守ってくれました。

ですから、
私と弟は、
母子家庭の環境でも、
捻くれること無く、
素直に元気に育ちました。

桜島の火山灰で
泥だらけになりながら、
日が暮れるまで
無邪気に公園で
遊ぶ仲良し兄弟でした。

「父親がいない」
ということを除けば、
愛に溢れた
温かい家庭でした。

あの日、
福岡に行くことになる日までは・・・。

母、祖父母、私、弟の5人で、
福岡に住む実の父に
会いに行くことになる日までは。。

何故、実の父に会いに行ったのか、
そこで、何があったのか、
また今度書きますね。

追伸;

私のこのような半生には
ご興味が無い方も多いと思いますが、
今後私が情報発信をする上で、
読者の皆様には私自身をしっかり
知って頂く必要があると考え、
何回かに分けて、
半生を書き綴ろうと思っております。

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